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すっきりとしない冬の寒空が広がる12月下旬。どこか気ぜわしさを感じながらMR佐々駅前から国道204号線へ出ると家々の間に鳥居と参道があることに気づきます。綺麗に整備された参道は100メートル以上はあり、途中には小さな二の鳥居。その先、階段を上りきると拝殿と鳥居が現れます。ここが今回訪ねる三柱神社。北松地域でも2つしかない郷社の1つとして佐々町内外で広く信仰の中心となっている神社です。境内は静かで、年末年始のにぎわいのまえの静けさが漂っていました。
現在、宮司を務めておられるのは三十六代目となる神田卓磨さん。若い頃は高校の教師をしておられたそうで、豊富な歴史の知識とともに取材が始まりました。 |
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三柱神社の創建は古く、貞元2年(977)埼玉県大宮市の氷川神社より三柱(三体の祭神)を分霊し、古川岳に祀ったことに始まります。その後、佐々川北岸、里村山王山、羽須和免大宮原そして羽須和免社ノ元へと遷座しました。その歴史は実に1030年にも及び、とても由緒ある神社なのです。 |
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三柱神社といえば「おくんち」。こちらも始まりは天養元年(1144)と860年以上の歴史を誇ります。秋の収穫祭を兼ねた伝統行事で、お旅所がある小浦地区では、演芸会や子ども相撲が催されます。神社離れ、宗教離れが進んでいる現在、どのように催されているのか伺いました。
「おくんちは宗教的な儀式というよりもすっかり地域の伝統行事として定着していて、子ども相撲には毎年150人ほどの小学生が参加しています。また、その日は学校が休みになるんです。それだけ神社が地域に根ざしているということですね。御神輿にも婦人会だけで100人ほどのお供があるんですよ。最近では還暦、厄除け、お日晴れなどの祈願をする時にだけ参拝する傾向があります。しかしおくんちなどの祭りには地域に根ざした伝統行事だけに皆さんが快く協力し、参加してくれています。これだけの規模になると各地区の総代さんを始め、地域の方々の協力なしにはとても運営できません。そこに神社としての宗教色を強く要求するのは無理がありますし、むしろ宗教色を出さずに、暮らしのなかに神社の行事が溶けこんでいることはとても喜ばしいことだと思っています」 |
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拝殿横の広場には砲弾を抱いた兵士の像があります。
「昭和七年(1932)勃発した上海事変で、攻めあぐねていた日本軍の進路を切り開くため竹製の爆弾筒を抱いて鉄条網に突入し、爆死した3人の兵士がいました。そのうちの1人が佐々町出身の北川丞(すすむ)伍長だったのです。戦後長らく東京・青松寺の地下室に眠っていましたが、町民の希望で昭和43年、こちらに移されました。台座に『平和之礎』と刻まれた銅像は町民の平和への願いがこめられたものなんです」 |
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素盞嗚命が主祭神のため第2次大戦中は戦勝祈願の参詣が多かったとか。しかしそれも千年の歴史から見れば微々たること。三柱神社はこれからも地域の暮らしに溶けこみながら、人々とともにゆったりと安らかな歴史を刻んでいくことでしょう。 |
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この記事は平成19年1月21日発行のメモリアルだより(佐々版)第14号に掲載されたものです。 |