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県道松浦日野線を市内から世知原町方面へ上ること約十分。山の中腹に位置する志佐町長野免には緑があふれ、爽やかな風がそよいでいます。そんな素晴らしい環境に囲まれ、静かに佇むお寺、それが今回訪ねる宝昌寺。平成五年に開山四〇〇年を迎えた古刹です。現在、第二十世瞎禅義教和尚が住職を務めておられます。 |
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宝昌寺の開山・創建の詳細は、正確な記録が残っていません。しかし開山牌銘にある『文禄三年正月十五日』(一五九四年)の文字から、その頃であることが推察されます。また開山名もはっきりとしませんが、開山から約百年後の一六九三年(元禄六年)に、高僧・盤珪禅師(ばんけいぜんし)によって中興(再興)されたと記録があります。そして現在の地に落ち着いたのは明和年間(一七六四〜一七七二)らしいことが境内に残る石灯籠などに彫られた銘からわかります。
この宝昌寺、車で訪れると山門が見えません。なぜなら宝昌寺は、県道の横手の山あいに広がる田んぼを見渡せる向きに建っているからなのです。田んぼからお寺を見ると、境内中央にそびえ立つ大木が目印となり、その昔、人々はお寺に見守られながら農作業にいそしんでいたと思えるのです。
また、山あいに位置するためか境内はさほど広くありません。しかし昔の人の知恵なのでしょう、その分、鐘撞堂や石塔など様々なものが凝縮して配置されているようです。本堂にはご本尊である薬師如来だけでなく、中興の祖、盤珪禅師の像も祀ってあります。また、豪華に描かれた涅槃図の掛け軸なども見せていただきました。(普段は公開されていないそうです) |
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瞎禅義教和尚はこれまで妙心寺派の役職を務めてこられ、京都の本山へも四年ほど出向されていたそうです。今回の取材も本山への出張など過密スケジュールの合間を縫って応じていただきました。
「結婚が宗派のみならず宗教を超えて行われている例からもわかるように、お寺と地域・家庭という結びつきが和尚個人と檀家個人との結びつきへと変化してきています。しかし、そのようになっても人々に正しい道を説くというお寺の役割は変わっていないようです。いやむしろ、インターネットなどが普及した今こそ、情報の洪水の中から正しいことを見抜く力を仏の教えによって養う必要があるのではないかと感じ、これまで以上に地域との結びつきを密にしなければならないという思いもあります。
そのようなことから、家庭における宗教教育を支える場として、この四月に青壮年部を結成しました。具体的な活動はこれからですが、地域の寺子屋のような位置づけで日曜法話や親子座禅会、写経教室などを構想中です。そして、それらの活動によって宗教的な基礎・情操教育だけでなく、地域のつどいの場として親しまれるようになればと考えています。」
広い見地から力強く青壮年部を語る住職の意気込みに、今後の青壮年部の活動からは目が離せないように感じられました。 |
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取材後、小雨が降り出した境内に出ると本堂に向かって左手の林に、数体の小ぶりな石仏がありました。昭和初期、檀家によって寄進されたものだそうです。長野免の自然に溶けこんだ姿は、山あいのお寺を訪れる参詣者をそっと見守っているようでした。 |
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この記事は平成16年5月16日発行のメモリアルだより創刊号に掲載されたものです。 |