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朝晩は肌寒く感じられるようになっても、強い日差しに汗ばむ肌がまだまだ残暑を感じさせる九月の中旬。佐々町の国道から千本公園へと登っていく道を山手に入り、百段もあろうかという参道を登ると、佐々町市街地を一望できる山の上にお寺が見えてきます。ここが今回訪ねる東光寺。今年で約570年の歴史を誇る名刹です。
現在、住職を務めておられるのは第三十世 遥山正徳(はるやましょうとく)和尚。常に柔和な表情で、気のよさそうなご住職です。 |
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開創は室町中期の永享六年(1436)。全国を行脚していた土佐の松陰禅師(しょういんぜんし)が東光寺山上の虎頭岩で座禅を組み、そのままこの地に留まったことによります。
この当時の佐々は平戸松浦家にとって、相浦宗家松浦家との前線基地として、戦略上重要な土地でした。そのため東光寺山上には平戸松浦家の本陣が建てられ、永禄の役(1563〜1566)では寺も焼失するほど激しい戦の舞台となったのです。その永禄の役において、東光寺には伝育坊という豪傑僧の逸話が語り継がれています。身の丈七尺(約210センチ)、体中毛むくじゃらで、鎧甲の姿の腰には1メートルの太刀、鉄の芯が入った棍棒を握っていたという伝育坊は戦場において大活躍したのです。現在、寺には伝育坊が使ったとされる槍などが遺されています。
「医王山という山号は、どういう意味だかわかりますか?」
突然ご住職に質問されました。
「これは薬の王様という意味なんです。ですからうちのご本尊は、秀吉の朝鮮出兵の際にお守りとして海を渡ったんですよ」 |
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戦火にも巻き込まれた東光寺ですが、もちろんお寺として仏教の教えを伝えることが本来の姿。昔話はさておき、現在の活動などをご住職に伺いました。
「私は住職として、常日頃『先祖供養』という勤めを通じて、仏教の中心となる教えを伝える努力をしています。『いのち』というものは人間ばかりでなく山川草木、生きとし生けるものすべてに連なっているのです。ですから他人を傷つけたりする争いや戦争などはもってのほかと言わざるをえません。しかし現実には、人が人を傷つけ合い、時には子どもまでもが他人を傷つけるような世の中になってしまいました。これは先ほど申し上げた『いのち』とは何なのか忘れられてしまっていることに原因があります」
柔和な表情ながら、はっきりとした口調でご住職は語られます。
「そのためには『いのち』の大切さを学ぶことが大切です。まず先祖の菩提を弔い、供養の心を育むためにはやはりお寺に足を運ぶことが大切なのです。お寺は、身近な供養はもちろん「お施餓鬼会」などの行事を通して『いのち』の大切さを学んでいただく重要な役目を担っているのです」 |
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外をご案内しましょうというご住職に誘われて、オレンジ色のコスモスが咲く境内へ。決して穏やかな歴史を積み重ねてきたわけではない東光寺。しかし歴代の住職とともにしっかりと仏教の教えを伝え続けてきました。山の上からまちを見つめる住職のやさしい目は、より一層やさしさを湛えているように感じられました。 |
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この記事は平成17年10月9日発行のメモリアルだより(佐々版)第1号に掲載されたものです。 |